日本には四季があるから、素敵です。
寒椿を楽しみ、梅のつぼみが膨らんでいくのをドキドキし、華やぎある春を経て、紫陽花、朝顔。そして、宗旦槿(そうたんむくげ)を眺めて涼を感じ、やっと秋です。
お茶の世界で言えば、茶花は夏から秋にかけて、籠に花数をどんどん増やしていって、秋を迎えます。
秋草は、多くの種類を野手溢れるようにいけるのです。
・・・しかし、今年はこの夏が異常に暑く、長かった。
秋草を見る風情にはまだなりませんね。
コスモスはもう、咲いているのでしょうか?
しかし、やっとですが、ちょっとずつ秋らしくなってきています。
今朝、空を見上げたらそう思いました。
私は、1年の中で、この季節が一番好きです。
食欲の秋、芸術の秋、体育の秋など、いろいろ言いますが、私は年中食べることが好きだし(例え猛暑でも)、芸術もそれぞれの季節を楽しむものだし、体育は見るのが専門。残るは「読書の秋」です。
・・・まぁ、これも一年中だろうとつっこまれると、その通りなのですが。
しかし、さわやかな空の日に、お気に入りの窓際に座り、そよそよとした秋風にあたりながらの読書。そして、しっとりと涼しげな静けさの夜長に楽しむ読書。いずれも至福の時です。
なんとなく、芸術的な気分になってきた筆者は、ちょっと趣深く(仕事をさぼっているという現実には目をそむけつつ)、一冊の本を取り出すことにしました。
白洲正子と加藤唐九郎の対談集『やきもの談義』(風媒社)です。もう50年近く前の本ですが、ロングセラー。歴史的名著ですね。
両巨頭のイメージは、ひょっとしたら、清涼感というわけにはいかないかもしれません。
しかし、やきものに関して、日本の伝統や文化に関して、「好き放題」、戦場を駆け巡る関羽と張飛のように、ばったばったと切り捨てていく言葉の奔流には、ある種の清涼感を覚えてしまうのです。
納得したり、同意できなかったり、感心したり、とにかく二人の言葉にのみ込まれていきます。私のような凡人には、高みにいる二人に羨望を覚えこそすれ、妬みも批判も述べる気にはなりません。
人間の魅力というのは、持って生まれたものなのでしょうか。
それとも、この二人のように、思うままに、しかし怠らずに生きていけば、あと何十年後には、魅力ある老人になれるでしょうか。
「好好爺」という言葉は好きではありません。むしろ、二人のように憎まれ口をきく、しかし情味溢れる魅力的な年寄りになりたいです。
そんなことを思っている間に、だんだん体温が上がってきました。
白洲正子と加藤唐九郎には、「情熱」の方がふさわしかったかもしれません。
(2010年9月初出、2024年10月加筆修正)
追記。。。
最初にこの記事を書いたのは10年以上前の、初秋でした。そして、その年も異常に暑かったですが、今にして思えば、例年より暑い「猛暑」に過ぎなかったようです。ですから、冒頭のように夏から秋への季節の移り変わりをしっかり楽しめました。翻って、今はどうでしょう! 恐ろしいほどに、秋が来てくれない。ムクゲや彼岸花に秋の訪れを感じさせてくれません。それどころか、まだ台風とか……。